設立のきっかけ~娘の病気と付き添い入院~
公開日:2015/04/25
キープ・ママ・スマイリングを設立したきっかけ
キープ・ママ・スマイリングは、自らの経験をもとに、医療の隙間に落ちている課題を痛感し、その課題を解決するべく設立されました。その課題の一つが「病児を看護する母親を支援する環境が不十分」であること。
ここでは、理事長の光原が「病児を抱える母親を支援したい」と思うに至った経緯をご紹介します。少し長い文章ですが、最後までお付き合いください。
*2019年3月に日本経済新聞に掲載したコラムにて設立の背景と現在の活動について綴りました。こちらよりお読みいただけます。
第一子出産と付添入院
35歳で出産した日、娘は大学病院のNICUへ急遽搬送されました。
何が起こっているのかまったく意味が分からず、出産時の多量の出血により貧血となり歩くのもやっとな状態で、よろよろと外出許可を取り、毎日大学病院へ通う日々。私だけ赤ちゃんがいない、母子同室の4人部屋。一人での退院。夜中の搾乳。そして、生まれたばかりの小さな娘が点滴の管や計測器に囲まれている姿に、毎日泣いてばかりで瞼が腫れ、前が見えませんでした。
それでも、何よりも娘が元気になることだけを考え、NICUから一般病棟へと移動できた娘と一緒に病院に泊まり込み必死で初めてのママ業に臨みました。おむつがえも、授乳の仕方も小児科病棟で習いました。
初めての子育てと、先の見えない不安とで気持ちが張り詰めていたからか、一気にカラダにガタがきて、腰痛で眠れない状況となり、整体の先生には大変お世話になりました。
出産直後の骨盤もまだ開いているときから狭い簡易ベッドで夜は眠り、日中は赤ちゃんがいるベッドに乗り込んでミルクをあげたりちょっと添い寝したり、体が歪んでしまったのは当然だったかもしれません。
また、付添い者にご飯は出ないので、赤ちゃんが寝ているスキにコンビニへ走り、3食を調達。検査や回診の合間をぬって食べる日々。夫が面会に来たときは、病院内のレストランで温かい料理を食べることができますが、、レストランは閉まるのが早いため、夫が来るタイミングによっては間に合わず、コンビニへ走ることも・・・・・・。
狭い空間で過ごす付添い入院の日々でのリフレッシュは食べることでしたが、なかなか過酷な状況でした。看護するママは体が資本なのに、周りのママもコンビニサンドウィッチをささっと食べる人がほとんど。体によいわけはありません。
第二子出産と完全看護と付添入院
長女もすっかり元気になり、付添い入院の日々も遠い過去になってきたころ、第二子がするりとお腹にやってきました。
ところが、第二子は、出産してすぐ手術が必要な疾患があることが判明。
あのときのお腹の赤ちゃんへの申し訳ない思いはどう文字にしたらいいのかわかりません。「本当にごめんね」としか伝える言葉を持てませんでした。
生まれてからの過酷な日々を想像し、外に出たくなかったからなのか、予定日を1週間過ぎてようやく誕生。そのままNICUへ搬送された娘は、がんばって手術も乗り切り、驚異的な回復力で退院の日を迎えました。
退院までの最後の1週間は、完全看護が前提の病院でしたが、退院後の授乳練習を理由に、個室で付き添いました。完全看護のため面会時間が決まっており、面会時間外については付き添えないのですが、どうしても耐えられない光景を目にしたからです。
赤ちゃんへのミルクの時間。人手不足のために哺乳瓶でミルクをあげるのは最初だけ。途中からは顔の横にタオルを積んで、その上に哺乳瓶を乗せて勝手に飲ませている。え、これ何? 衝撃を受けました。
保育園でさえ、ちゃんと保育士さんが抱っこして最後までミルクを飲ませてくれます。
どうして、病児なのに、首も座ってないのに、顔の横にタオルを積んで哺乳瓶を乗せて、勝手に飲ませることが常習化しているの?看護師長さんが見回ってその様子を見ても何の注意もないのを見て、ああこれが当たり前の状況なのだと怖くなりました。
後で知ったのは、保育園での保育士1人あたりの0歳児の人数と、病院での看護師1名あたりの患児の人数では、保育園のほうが手厚い制度だという現実。健常児のほうが、病児より手厚く面倒をみてくれるってどういうことでしょう。
入退院の日々と次女とのお別れ
その後、次女は入退院を繰り返しながらもすくすくと成長し、もう少しで1歳というある日、突然お空へ旅立ちました。
手術は必要だけれど、いなくなるということはまったくの想定外だったため、心の準備なんてあるはずもなく、毎日当然のように想像していた娘2人との日々、姉妹の成長の姿という未来が一瞬で奪われ、本当に、これからどう生きていけばいいのかわからない。文字通り、目の前が真っ暗になりました。
長女の存在が、唯一私をこの世界につなぎとめる理由でした。
涙はどこまでもあふれ、もう一度会いたい、触りたい、おっぱいをあげたい、と泣くばかりの日々。しかし、娘がいなくなった瞬間に育児休暇は終了となり、職場復帰へ。復帰して強制的に日常が回ることは精神的な助けになり、なんとか毎日が過ぎていきました。
それでも、次女が私の元にやってきた意味を考えては悲しくなり、彼女の短い一生はいったいなんだったのか、彼女は私のところにこなければ、元気にすくすく大きくなれたのではないかと、考えても仕方がない「たら、れば」がぐるぐる回り、会社の行き帰りの道すがら泣きました。
そんなときに、友人から胎内記憶について記されている本をいただきました。すべての命は目的を持って生まれてくる、何かの役に立とうとする思いを持っている、そして、お空から親を選んで生まれてくる子がほとんどだと。
苦しくてたまらなかった心が、少し救われた瞬間でした。娘たちは、私と夫を選んで生まれてきた。次女は、自分の疾患を受け入れたうえで、この親のもとに行こうと意思を持って来てくれたのだ、ということはこれ以上にない救いでした。
であれば、私にはその思いに応えなくてはいけないのではないか。彼女は私に何かを気づかせるために、わざわざ選んで来てくれたのならば、その彼女の意思を無にしてはいけないのではないか。
キープ・ママ・スマイリング設立へ
実は、29歳のときに卵巣がんで卵巣を1つ摘出しています。あのときは、偶然高熱が出たことがきっかけで早期発見となり、命を失わずにすんだのでした。
あのとき発見が遅れていたら私はこの世にいないかもしれないのに、何かの力で今も存在している。生かされている。卵巣も偶然1つ残された。それは、娘たちに出会うためだったのかもしれません。
どれもこれも、自分に都合よく解釈しているだけかもしれないけれど、どうしても私は、起こった事実に意味を持たせないとやりきれませんでした。
次女がこの世に存在した理由、私を選んでくれた理由を形にしなくては、あなたに会えたから、こういうことができたんだよ、と次に彼女に会えたときに話したい。それがこの活動を始めた原点です。
私だから、できることはなんだろう? 娘たちが私のところに来てくれたからこそできた私だけの体験を元に、誰かの役に立つことではないのか。そう思いました。
振り返ると、いくつもの大きな病院で付き添い入院をし、それぞれの病院で感じる問題点がありました。そうか、かつての私のように、病児を抱えているママたちが、今より少しでもいい環境で、もっと看護に集中できて、笑顔で子どもと接することができるように何かお手伝いできるかもしれない。そう気づきました。
そして、この思いに共感してくれる仲間と、活動のための船を作りました。今から船出です。少しずつかもしれませんが、病児を抱えるママのお手伝いをしていきます。
(2015.4.25公開)